唱歌「広瀬中佐」と「荒城の月」に明治人の心を偲ぶ

自然を畏敬した明治人

帰京後、『行進曲「軍艦」百年の航跡』(大村書店)の著者で第十一代海上自衛隊東京音楽隊長の谷村政次郎氏にお会いし、いろいろ教えて頂いた。 谷村さんは今、日本スーザ協会の会長をされている。以下は谷村さんの著書と資料とお話をもとにしている。

日露戦争開戦時、軍楽隊が配置されたのは第一艦隊(旗艦「三笠」)、 第二艦隊(旗艦「出雲」)、第三艦隊(旗艦「厳島」のち「日進」)の三艦隊である。 軍楽隊の編成は軍楽長(または軍楽師)一名を以て隊長とし、軍楽手十七名、軍楽生九名、計二十七名と定められていた。

「三笠」における軍楽隊員の配置は次の とおりであった。

一、前後部各主砲十二吋砲塔の伝令一名宛
二、信号助手として艦橋上にあるもの四~五名
三、上、中甲板に於ける負傷者運搬手約二十名
四、無線電信助手六名(兼務)

これでわかるように、海戦が始まると軍楽隊員の主な仕事は負傷者の運搬であった。

「三笠」軍医長が書いたものと思われる「日本海海戦二於ケル負傷者救治ノ状況」 のなかで軍楽隊員に関し、次のような記述がある。

「軍楽隊員ハ本年一月乗艦シテ爾来傷者運搬装創法を教育シ漸ク熟練セシモ、 海戦の経験ナキニ因リ実戦二際シ狼狽の虞アランコトヲ疑念セシカ、 意外ニモ斯ル杷憂ヲ認メサリシノミナラス、敏捷勇敢二動作シテ装創ヲ完フシ、 遺憾ナク職務ヲ尽シ尚ホ戦後傷者ヲ送院スルマテ寝食ヲ忘レ熱心看護ノ労ヲ執リシハ 小官最モ満足ヲ表スル処ナリ」

セクショナリズムなどどこにもない。個は全のため、 全は個のためにという隊員の気概に一点のくもりもない働きぶりだ。

ところで軍楽隊はいつ本来の目的業務である演奏をしたのか、記録はほとんど見あたらないという。

「君が代」は朝八時と日没時、軍艦旗の掲揚、降下とともに演奏されるものであるが、 それは港湾にて停泊中に隈られており、航海中は揚げたままで降すことはない。 従って航海中に「君が代」が演奏されることはない。

日本海海戦時の演奏の記録としては「三笠」乗り組みの三等軍楽手河合太郎 が「日露戦争の回顧」のなかで次のように記述しているのがある。

「決死隊の出発とか重要任務を帯びて退艦する場合とかに演奏する位でそのときの曲は初めロングサイン (アラウド・ラング・サイン=蛍の光)で見送ったが、どうも我々にはピンと来ない。 何んだか日本軍楽には女々しいと云うので『軍艦』行進曲に変更したが、 何んと此れは又勇ましい限りで勇気百倍したものだ」

この「軍艦」行進曲は瀬戸口藤吉の作曲である。瀬戸口は海戦当時横須賀海兵団に勤務していたが、 日本海海戦で運合艦隊が大勝利をおさめた直後の六月十四日に第一艦隊軍楽隊長として「三笠」に乗り組んだ。 「軍艦行進曲」の作詞は鳥山啓(ひらく)である。鳥山は紀州藩出身の博学の士で、 南方熊楠が唯一人師と仰いだ人物である。 実は同じ詞に山田源一郎が作曲したものがあった。それをあらたに作曲してみないかと瀬戸口に勧めたのが、 海軍軍楽隊の大先輩で「美しき天然」の作曲者として有名な田中穂積だった。 瀬戸口の才能を見ぬいた上のことであったのだろう。

かくして明治の海軍は勇壮關達なる「軍艦行進曲」と抒情漂う「美しき天然」という名曲をもつこととなった。 武勇とやさしさをそれぞれ象徴する名曲である。いずれも歌詞と音楽の一体感がずばぬけている。 「美しき天然」は自然と神を畏れ敬う心が旋律と共に深まる。

明治人の自然を畏敬する心は、堅牢なる鉄の塊ともいうべき軍艦にも和歌に出てくるような名前をつける。 「春日」、「三笠」、「敷島」、「朝日」、「富士」、「浅間」、「八雲」、「千早」、「高千穂」、 「音羽」、「松島」、「橋立」、「厳島」、これらはすべて目本海海戦の軍艦である。 明治人の心のありようが偲ばれる。

一方、バルチック艦隊最新最大の戦艦名は「アリョール(鷲)」、そして「ニコライ一世」、 「アレクサンドル三世」である。

この対比は当時の歌の世界にもある。「故郷の空」、”夕空晴れて”と歌い出すあの歌だ。 この歌はもともとスコットランド民謡で英語の原詩を直訳すると、”誰かが誰かと麦畑でこっそりキッス したいいじゃないか”となる。それが日本に来ると夕空晴れて秋風吹き、月影落ちて鈴虫鳴く、となる。 日本はやはり花鳥風月の国である。「ニコライ一世」「アレクサンドル三世」と「三笠」「春日」の違いである。

今でこそ我々は自然にドレミの七音階をたどることができるが、 日本に洋楽を導入した伊沢修二はそのことで大変苦労した。 明治八年、文部省からの留学生としてマサチューセツツ州立ブリッジウォーター師範学校に入学するが、 七音階の音程がとれない。伊沢の悪戦苦闘ぶりをみかねた校長は、歌曲の考査を免除してやろう、といった。 伊沢は選ばれて留学したからには、全てを学ばねばお国に対して面目が立たぬ。 そんなことでは国へは帰れぬとくやし涙を流すのだった。

お国に対して面目が立たぬ、明治人はいかにもうぶで健気である。

ルーサー.メーソンという音楽教育家に出会い、七音階を習得して帰国する。 帰国後、文部省音楽取調掛の御用掛に就任する。この時から目本の音楽教育が始った。 それから二十年、明治人の習得能カと応用カは、目本の風土にあった独自の歌を生んでいく。 唱歌・童謡である。なじみの詩人・作曲家の日本海海戦時における年齢は、主なところ次のとおりである。

高野辰之二十九歳、岡野貞一二十七歳(「ふるさと」、「騰月夜」、「春の小川」、 「紅葉」)

北原白秋二十歳、山田耕筰十九歳(「この道」、「からたちの花」、「砂山」)

野口雨情二十三歳、中山晋平十八歳(「しゃぼん玉」、「証城寺の狸灘子」、「波浮の港」)

童謡、唱歌には自然の美しさ、四季のうつりかわり、そこに住む人々の心を歌ったものが多い。 私はこれらの歌を多くの人と共に歌いたいと、ホームページリサイタルをひらいている。 これらの歌は日本人の心の財産である。

ところで平成十七年は戦後六十年である。毎年十一月、銀座ヤマハホールでリサイタルをしているが、 十七年のプログラムに鎮魂歌のステージを組む予定だ。 木原孝一作詩による”一本の杭、此処に海兵か陸兵かただ神のみの知る無名兵士が眠る” から始まるレクイエム「無名兵士」という合唱曲がある。 独唱曲にならないか試みたが、やはり無理である。 そこでその代りとして「海ゆかば」を歌うことを決めている。

それは広瀬神社の慰霊祭のとき決めたのだ。 “みづくかばね””くさむすかばね”となった無名兵士達へのレクイエムとして。