唱歌「広瀬中佐」と「荒城の月」に明治人の心を偲ぶ

廃藩置県への鎮魂歌

二の丸に来る。そこに瀧廉太郎の像がある。大分県出身の彫刻家朝倉文夫の作である。 二の丸は数寄屋(すきや)・月見櫓などがあったところ、いかにもこの像がふさわしい。

本丸へ登る、小さな神社がある。五十四年前、この本丸跡で私は初めて人の前で独唱した。 それは第三回西日本高校独唱コンクールだった。このコンクールは、 今も全国の高校生独唱コンクールとして続いている。

夏休みの前、福岡高校音楽専任の江口保之先生から「阿蘇に運れていってあげよう。費用はいらない。 その代り行った先で一曲歌えばよい」という。小中高と一度も修学旅行のない世代の私は、 修学旅行の代りのようなものだという先生の言葉にとびついた。

生来、運動好きの私は終戦まで剣道部、禁止によりラグビー部へ、更にボクシング部へ移り汗を流していた。 高一の音楽の時間、江口先生は私の歌唱をえらく褒めて音楽部へ誘った。 岡城址本丸跡の仮設ステージの上で歌う私の姿は、先生の褒め言葉に起因するものだった。 先生との出会いは、好運としかいいようがない。そのことがライフワークとなって今日へと続いている。 文字通り仰げば尊しわが師の恩である。

そのとき歌ったのはトスティのセレナータだった。 「荒城の月」も練習したが、どうしても歌えなかった。 いや歌えないことはなかったが、四節すべて心をこめて歌うことができなかった。

荒城の月
			土井晩翠 作詞
			瀧廉太郎 作曲
一、春高楼の花の宴
    巡る盃かげさして
    千代の松が枝わけ出でし
    昔の光いまいずこ

二、秋陣営の霜の色
    鳴きゆく雁の数見せて
    植うる剣に照りそいし
    昔の光いまいずこ

三、いま荒城の夜半の月
    替らぬ光誰がためぞ
    垣に残るはただ葛
    松に歌うはただ嵐

四、天上影は替らねど
    栄枯は移る世の姿
    写さんとてか今もなお
    鳴呼荒城の夜半の月

平成元年の秋、『明治という国家』(司馬遼太郎・日本放送出版協会)のグラビアにあった岡城址を見て驚いた。 読むと、「荒城の月」は廃藩置県への鎮魂歌ではないかと書かれてあった。 長い間、四節集中して歌いきることができなかった私は、 封建社会の幕藩体制から近代国家としての日本が生れ変ろうとする節目(廃藩置県) のときに礎となった人々への鎮魂の歌として歌った。四節最後まで集中して歌うことができた。 この歌に魂が入ったと感じた。

瀧廉太郎の旋律は岡城址の如く磐石たる風格をもち、 土井晩翠の詞は壮大にして森羅万象を表現する。

第一節、春高楼と目線は高く、千年にもなろうかという松の枝は、動くが故に昔の光は枝を分けてさしこむ。

第二節、秋陣営の霜の色と遠く地平はひろがる。 植うる剣は「陸奥話記」に漢文で収められている隍底倒立刃という言葉からの引用で、 柄を土にさし込み隍底倒(逆さま)に刃を立てて敵を防ぐという意味をもつ。 剣は動かないが故に、昔の光は剣に添うが如く照る。

第三節、これこそ鎮魂の節なのだ。替らぬ光誰がためぞと、礎となった一人ひとりに光をあてている。 歌唱はこの節で祈りとなる。

第四節、天上影は--大きな自然。栄枯は移る--悠久の歴史、今もそれを写しているのか、荒城の夜半の月よ。 歌うたびに味わいは深くなる。