唱歌「広瀬中佐」と「荒城の月」に明治人の心を偲ぶ

広瀬武夫と滝廉太郎

実は「広瀬中佐」の歌は四年前の明治四十一年に中等唱歌としてすでにあった。

広瀬中佐作詞者・作曲者未詳

一、旅順の港頭狂風號び驚潤高し
    地の利を頼みて強敵守る
    砲弾縦横電光閃々
    鬼神も怖ずる真唯中を
    正気は誠の一字にありと
    懐慨義に就くこれこそ軍神、広瀬中佐
(二、同様の文体につき略する)

読みくらべ、歌いくらべると”杉野は何処”にひかれる。 今に残る歌には杉野兵曹長の救出に殉じた広瀬武夫の人間愛があり、それが歌う人、 聞く人の心に伝わってくるからだろう。

広瀬武夫は明治元年、豊後竹田の生れである。 竹田市は大分から熊本にむかう豊肥本線で約一時間のところにある。 そこには岡城址があり、登れば南に阿蘇の山々、北には九重の山並を望むことができる。

またこの地は、日本歌曲の第一号といわれる「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎が少年時代を過したところでもある。 東京生れの廉太郎は、豊後日出藩出身の父吉弘が大分県直入郡の郡長を命ぜられたとき、 竹田の郡長官舎に移り住んだ。この官舎の道をへだてた小高い岡の上に広瀬武夫の家があった。 廉太郎の両親は武夫の話をよく聞かせたという。

武夫と廉太郎はのちにドイツのライプチヒで一度会っている。明治三十四年、 ライプチヒ音楽学校に合格した廉太郎を、当時ペテルブルクの大使館付武官だった武夫が同郷のよしみで訪ねたのだった。お互いの家が近かったことからふるさと竹田を懐しく語ったことだろう。

そのとき、こんな歌を作曲しましたといって渡された楽譜が「荒城の月」であった。 武夫がそれをペテルブルクにもち帰りロシア人に見せたところ、 これは本当に日本人が作曲したのかと感心されたそうだ。

多感な中学時代を竹田で過した廉太郎は岡城址でよく遊び、 「荒城の月」は岡城址をイメージして作曲したという。武夫は荒城の文字に生れ育ち、 遊んだ岡城址に思いをはせたことだろう。

その岡城址へ登る手前、右側の小高い斜面に広瀬神社がある。

平成十六年五月二十七日、そこで広瀬武夫の百年忌祭と戦没者合同慰霊祭が行われた。 それに参列するため前日の二十六日に竹田を訪れた。その日、私は久しぶりに岡城址に登った。

岡城址は切り立った阿蘇溶岩台地の上にある。 台地の絶壁に大きな岩石がはりつくように積まれている。巨大な土木建造物である。

城という字は土扁(へん)に旁(つくり)を成ると書くが、なるほどこのことかと思う。 平地に建つ壮大にして華麗なる城は多いが、大自然の土と溶岩と岩石が一体となった城は他に例をみない。

台地は谷底から屹立し、切り立った絶壁には岩石が垂直に積みあげられている。 眼下、稲葉川と白滝川が城を守る。のぞくと吸い込まれそうである。 恐らく下から見れば、天へ続く巨石のつながりとも見えるだろう。 難攻不落の城であったというのもうなずける。

この城の歴史は長い。

岡城は今より約八百年前、鎌倉時代のはじめ緒方三郎惟栄(これよし)が築城したと伝えられている。 築城は頼朝の追討をうけた義経を迎えるためであったという。

話はとぶが、終戦時の陸相阿南惟幾(あなみこれちか)も竹田の出身である。惟幾は本土決戦を主張していたが、 一旦ボツダム宣言を受諾した後は抗戦派の慰撫に努めた。終戦時の大臣のなかで、 唯一人八月十五日に自決した人である。ご子息で新日本製鉄顧問の阿南氏もお名前は惟正である。 惟は心をめぐらす、よく考えるの意がある。惟の字に豊後竹田八百年の歴史を思う。

惟栄のあと、南北朝時代に豊後守護大友氏の分家であった志賀氏がここに入る。 親次(ちかつぐ)の代に九州制覇を目指す薩摩・島津軍の侵攻を受ける。 豊後の南郡衆が次々と降伏していくなかにあって、親次は無勢ではあったが、 岡城に拠ってこれを退け名を上げた。城を囲む深い谷は100メートルにおよび、 もっとも深いところは220メートルもある。谷底より登れば、崖はやがて石垣となる。 親次の奮闘もさることながら、天険の要害が撃退したともいえる。

秀吉のとき中川秀成が入封し、明治四年の廃藩置県まで続く。 その間、本丸、二の丸、三の丸、大手門がつぎつぎと構築され、近世城郭史上特異な城となる。 大手門から家老屋敷、城代屋敷、大鼓櫓などの跡をすぎて三の丸へとゆく。 平日の午後、すれ違う人もいない。平泉と雰囲気は違うが、やはり兵(つはもの)どもが夢のあとである。 築城以来、どれほどの武士がここを行き交ったことか。