「荒城の月」と司馬遼太郎先生

shiba

小西菊枝様を通じ、たくさんのテープ、ありがとうございました。端正で、清らか情趣のある御歌は、そのまま日本の明治やアメリカのニューイングランドのピューリタリズムを思い出させるものでした。
右ありがたく 一九九〇年 三月一日 司馬遼太郎

山本健二様

 

平成元年の秋 司馬遼太郎先生の「明治という国家」という本のグラビアにある大分県竹田の岡城阯を見てハッとしました。 岡城は大野川とその支流稲葉川にはさまれた、狭い溶岩台地の上にある天険の要害で、天正14年九州制覇を目指す薩摩の島津軍を豊後において唯一撃退した堅牢無比な名城です。 石垣はもっとも深い谷底からは130メートルも上にあり、見下ろすと目がくらむようでした。

城そのものは既に無く、城跡に設けられた仮設のステージで私は初めて独唱したのです。高校3年、昭和25年の秋でした。

岡城阯をイメージして作曲したといわれております瀧廉太郎の「荒城の月」は、そのときより私の歌唱の原点となったのです。 しかしながら、荒れた城へのノスタルジーとの理解のもとに歌っておりました私は、同じメロディーの四節を全て集中して歌いきることができず、第三節(今思いますと1番大事な歌詞のように思えますが)をカットして歌っておりました。 「明治という国家」は、そのような私にとって天恵でありました。

それ以来、私は次のようなお話をして歌い、それによって四節全て歌えるようになった気がしております
---歌唱の技巧は別にして、心のありようとしてですが---。

「荒城の月」は日本歌曲の第一号といわれております。明治33年瀧廉太郎22才のときの作品であります。  明治33年は西暦1900年に当たります。今日、世界において日本の歌といいますと「さくらさくら」と「荒城の月」がよく選ばれます。103年たった今日においても日本の歌を代表する名曲であります。この「荒城の月」につきまして司馬遼太郎さんは「明治という国家」という本の中で

明治四年の廃藩置県によって当時家族を含めると百九十万人の士族階級が一夜にして職を失い崩壊しました。 時の明治政府は士族の心の拠りどころであり、また象徴である城に彼らが立てこもって反抗されては、ということで全国二百七十余藩の城を次々と取り壊していきました。 土井晩翠は旧制仙台二高の学生のときおとずれた、会津若松鶴ヶ城の荒廃に深い感慨を覚え、瀧廉太郎は中学生のころよく遊んだ岡城に思いを馳せたといいます。 「荒城の月」は二人の芸術家の想念があいまって生んだ廃藩置県への挽歌、悼歌、鎮魂の歌ではないかと書かれています。

封建社会の幕藩体制から近代国家としての日本が生まれ変わろうとする節目のときに礎となった人々への鎮魂の歌として歌います。

声楽界において、未だかって誰一人として思い至らざる深い洞察でありました。これにより「荒城の月」は歌唱の魂が導入されたといえましょう。長い間心の中にあった靄(もや)に一筋の透明な光が差し込まれていく思いをしました。 司馬先生への深い感謝の気持ちを宇都宮の小西菊枝様にお伝えしたところ、みどり奥様と親しくしておられたことからカセットテープを聞いて下さり上にありますお手紙を頂いたものです。 新しいCDをリリースする度にお送りしますとお葉書を頂き私の歌唱の大きな支えとなっていました。 私にとって「荒城の月」は廃藩置県への鎮魂の歌であるとともに司馬遼太郎先生への悼歌でもあります。

山本健二