唱歌「広瀬中佐」と「荒城の月」に明治人の心を偲ぶ

バリトン歌手 山本健二

「正論」平成16年12月臨時増刊号に掲載

杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや

文部省唱歌「広瀬中佐」(大正元年小学唱歌)の一節である。 “杉野は……”を見た瞬間、メロディーを思い浮べた方もいるだろう。

ところがメロディーは浮んでもあとの言葉が出てこない。 ラララで辿るのが大半ではないかと思う。旧制中学一年のとき、 終戦をむかえた私もそのなかの一人だ。

平成十六年、日露戦争百年にあたり「さくら」というアルバム名のCDをリリースした。 副題は「明治のメロディー祖霊への畏敬」とした。

製作の作業は頭をよぎるメロディーのなかから候補となる歌をいくつかメモっていくことから始まる。 「鳴呼玉杯に花うけて、緑酒に…」「紅萌ゆる丘の花、早緑…」「霰のごとくみだれくる、敵の弾丸…」 「ここはお国の何百里、離れて遠き満州の」「杉野はいずこ杉野はいずや」

広瀬中佐では歌いだしがでてこない。なさけないことだ。気をとり直して候補とした歌の楽譜をみる。 すると「ここはお国何百里」と歌っていたが、「ここはお国何百里」であることを知る。 「戦友」は詞(ことば)も旋律も悲しい。戦地で歌うことを禁じたという話もうなずかれる。 「お国の」はごく普通の表現だ。「お国を」としたことで次に出てくる「離れて遠き」と深くかかわり、 お国への思いが濃くなる。

歌いだしの出なかった「広瀬中佐」の歌詞を読む。写実的であるのに驚く。 子規の写実の影響は、このようなところにもあったと見るべきか。

広瀬中佐 文部省唱歌

一、轟く砲音 飛来る弾丸
    荒波洗うデッキの上に
    闇を貫く中佐の叫び
   「杉野は何処杉野は居ずや。」

二、船内隈なく 尋ぬる三度
    呼べど答えず さがせど見えず
    船は次第に 波間に沈み
    敵弾いよいよ あたりに繁し

三、今はとボートに 移れる中佐
    飛びくる弾丸に 忽ち失せて
    旅順港外 恨みぞ深き
    軍神広瀬と その名残れど

『坂の上の雲』(司馬遼太郎・文春文庫)にこの場面があった。 歌詞とオーバーラップするところを引用させて頂く。

広瀬は三度目の捜索に出た(尋ぬる三度)

杉野杉野とよばわってゆく(杉野は何処杉野は居ずや)

船底までさがしたらしい(船内隈なく)

広瀬はやむなく杉野をあきらめ全員ボートに移った(今はとポートに移れる中佐)

砲弾から小銃弾までがまわりに落下し海は煮えるようであった (轟く砲音飛来る弾丸敵弾いよいよあたりに繁し)

そのとき広瀬が消えた、巨砲の砲弾が飛びぬけたとき、 広瀬ごともって行ってしまったらしい(飛びくる弾丸に忽ち失せて)

レコーディングするときは、どんな曲でも五十回はくり返し練習する。 美空ひばりは新曲を発表するに当っては五百回歌いこむということを人づてに聞いたことがある。 天才と凡才は練習回数もひと桁違う。

しかし、くり返し歌っていると三十回目くらいから歌のもつ何かが感性のなかに少しずつひびいてくる。 言葉では説明しにくいものだ。ときどき思うのだが、音は見ることができない。 それに対して絵画、彫刻、文学は見ることができる。

ドイツの心霊学者シュタイナーが、 芸術の分野で神の領域と交りあうことができるのは音楽だけかもしれないと書いている。 それはこのことだろうか。神も音楽も、見えないという共通点をもつ。 寺院の鐘、声明(しょうみょう)、教会の音楽など音の世界で神仏を感じとるのは人類共通のものといえそうだ。

かつてニューヨークのセントパトリツクスカテドラルを訪れたとき、 見上げるような天井から降りそそがれるパイプオルガンの音に思わずひざまずきそうな衝動にかられたのを思い出す。

「広瀬中佐」をくり返し歌う。「轟く砲音」から始まる歌詞は、『坂の上の雲』の文章とあいまって臨場感にあふれる。情景がスライドの如く変化していく。やがて三節の飛びくる弾丸に忽ち失せてで闇となる。 軍神の言葉がむなしい。それはその名残れどの「ど」の音節にあるようだ。残れ「り」ではなく、残れどの「ど」に明治人の心の一端にふれる思いだ。

国の命運を賭した戦いであることを十分理解し、 国民一人ひとりがいさぎよく命をなげうつ気概をもっていたなかで、 残れどのどの音節は何を語ろうとしたのだろうか。

「ど」はDとOの二つの音素から成る。Dは子音のなかで最も重々しく、Oは母音のなかで最も重厚な深いひびきだ。 余計な音節をすべてそぎとり最終の音節を「ど」にした作詞者の思いは、 恐らく公と私のはざまのなかで公のため一身をなげうった人への鎮魂の祈りであったのだろう。

楽譜の上では指定されていないが、”軍神広瀬とその名残れど”をリピート(くり返し)していた。 気づけば、くり返して歌っていた。ピアニストも楽譜上リピート記号がないにもかかわらず、 私が歌うのを聞きながら自然にくり返したという。

「ど」という語感・音感には決意と、しかしながらという二律背反のひびきがある。 広瀬中佐を歌いながらも、国を守るのだと沈んでいった多くの無名なる海兵一人ひとりへの哀悼の思いが広がる。