バリケン日本の歌への道

生誕から幼少期まで

1933年(昭和8年1月) 釜山府(韓国)に生まれる。

1945年(昭和20年) 釜山中学1年のとき終戦により福岡に引き揚げ同年旧制の県立福岡中学へ編入、そのまま新制福岡高校へと進学。

小学校は戦時体制下にあり、中学は戦後の混乱期にあって学校における音楽の授業は殆ど無かった、しかし家庭では歌の好きな母は何をするにも歌を口ずさんでいた。

その歌は『荒城の月』『椰子の実』『埴生の宿』『白虎隊』『青葉茂れる桜井の』『児島高徳』『七里ガ浜哀歌』『青葉の笛』『人を恋うるの歌』などであり、”ここはお国の何百里”の『戦友』などは12番まで歌うのだった。 母が歌い書きとめた歌詞カード125曲は兄の手により母の歌いし思い出の歌集となってそれぞれ兄弟の手元にある。

江口先生との出会い

1948年(昭和23年) 音楽専任教師江口保之先生と出会う。

小学校より運動の好きだった私は終戦まで剣道、戦後剣道が禁止されたのでラグビー部へ、高校の1年のとき兄がボクシングの福岡県ウェルター級チャンピオンだったのでボクシング部から誘いを受けボクシングをしていた。

一学期末、音楽のテストで私が歌うのを聞いた先生は音楽部へ入部せい!とかなり強引に私を入部させた。 先生は私をおだてあげ、私もそのおだてにいとも簡単に乗ったのだった。今にして思えばこの先生との出会い、先生のおだてが私のライフワークを決めたのだ。

母から歌好きの遺伝子をたくさん貰った私はそれまで知らなかった歌を江口先生から教わるのがとても楽しかった。 日本の歌もあったが外国の名曲を多く教えて頂いた。それにもましてアンサンブル・ハーモニーつまり合唱の楽しさを教えて下さった。

学校の音楽教室を自由に開放し、先生の部屋にある貴重なレコードを好きなように聞かせ、当時九州に数台しかないといわれていたシュタインウエイのピアノも”ピアノは弾くためにあるのだ”といって生徒に自由にさせていた。 この頃先生は『邪宗門』の作曲を始めていた。(歌曲集『邪宗門』と江口保之先生について”のページをご参照下さい)

昭和25年日本はまだ戦後の混乱の中にあったが三年生の私は音楽部の学生指揮者となり合唱三昧の日々を過ごしていた。

夏休みに入る前、突然先生は”君は修学旅行に1度も行ったことがないだろう、この秋、阿蘇を見に連れていこう、但し行った先で1曲歌うことになるがそれは教えてあげよう”。 秋、草千里が原などの阿蘇の雄大な眺めを満喫して着いた先は、瀧廉太郎が『荒城の月』を作曲したときイメージしたという岡城のある大分県竹田市だった。

岡城阯に設けられた仮設のステージの上で私は人の前で始めて一人で歌った。 曲はトスティーのセレナータだったが歌った後、天守閣・城門・櫓など全て取り払われた岡城阯を彷徨い”兵どもが夢の跡”を味わった。 『荒城の月』はこの時より私の心に深く刻み込まれた。後で分かった事だが土井晩翠は旧制仙台二高生の時訪れた会津若松の鶴ケ城に思いを寄せて作詞したというが、母の祖父は白虎隊の生き残りであった。 (“「荒城の月」と司馬遼太郎先生”をご参照下さい)

ところで、このステージは朝日新聞社主催の西日本高校独唱コンクールだった。江口先生はそのことを言うと私が拒否する事が分かっていたので阿蘇を見に行こうと言われたのだ。

帰りの車中”君、音大に行く気はないか、その気があるなら、ピアノは僕が教えよう、声楽は僕の親友の桐山先生に頼んでやる、レッスンのお金の事は考えなくていい”

その秋から翌年の正月までこの秘密のレッスンは続いた。しかしもともと音楽の道に反対だった親に露見しあえなく挫折、4月より浪人となる。

その夏、早稲田に進んだ音楽部の先輩が学友2人を連れて帰省した、早稲田大学グリークラブの人達だった。3人は早大グリークラブが如何に素晴らしい男声合唱団であるかを私に吹き込んだ。

大学のグリークラブ

1952年(昭和27年)から4年間のワセグリ(早大グリークラブの略)ライフは人の出会いと音楽生活で実り多いものだった。2年上にバス歌手の岡村喬生先輩、同期に小指の思い出の作曲者鈴木淳。後輩にボニージャックスの4人のメンバー(3人の結婚披露宴の司会は私)、4年生のとき学生指揮者となり、合唱コンクールでは3年ぶりに優勝した。

この頃からクラッシクの声楽家や合唱団の日本語が良く分からないのはなぜだろう、流行歌手や演歌歌手のは聞き取れるのにとの思いが強くなった。

3年のとき、藤原オペラのプリマであった城須美子先生がワセグリのヴォイストレーナーとなった。城先生の弟子の発表会は女性ばかり、オペラの二重唱の男性役に借り出されたのがきっかけでオペラのアリアにのめり込んだ。

社会人になってからの音楽活動

1956年よりサラリーマン、合唱指揮者、声楽の勉強(独唱者として)の3足の草鞋が始まった。イタリアオペラが来始めると資金の続くかぎり聴きにいきその声の響きを感性に染み込ませ、芸大、武蔵野音大の教授をしていたイタリア人の先生についてオペラのアリアを勉強した。

邦人作品の合唱指導では自分で歌って聞かせて指導した。ヤマケン(私の渾名)が指揮をする合唱団の日本語は分かると言われだした、同時に悲しいと歌うとき、どのように歌えば悲しいと言う情感が聞く人に伝わるのだろうか、これも歌って聞かせた。今にして思えば合唱団のメンバーを聴衆として日本語の歌い方の見本を示す勉強をしていた事になる。

1964年、自分の歌唱がどの程度のレベルにあるのか、と思い音楽界へのプロの登竜門であるNHK・毎日音楽コンクール(第35回)を受けた。サラリーマンが声楽部門入選ということで新聞記者のインタヴィユーを受けたが、当時は高度経済成長時代で会社に知れると困るので記事にする事は取り下げ願った。

この後、ドイツリードも勉強しなくてはと思い立ち、中山悌一先生に教えを請うた。爾来、16年間微にいり細にわたってドイツリードの歌唱法を教わった。しかしフィッシャーディスカウやヘルマンプライのCDを聞くとそれは天上のものであった。

日本歌曲へ

そのころ既にリサイタルをしていたがドイツリードを歌う勇気がなく日本歌曲とイタリア歌曲、イタリアオペラのアリアを歌っていた。

あるとき、友人の馬場一廣君から”お前の日本の歌はまた聴きに行きたいと思うが、イタリアのものは当然のことながらイタリア人のほうが遥かに上手い、日本の歌を専門にしたらどうだ”と言われた。

ドイツリードでは敵わないが日本の歌ではディスカウやプライよりも上手く歌えるかもしれないと思った私は日本の歌…日本語とは何かを勉強し始めた。

文字に古語があるように発音にも当然のことながら変遷があることが分かってきた。H音は奈良時代以前ではP音で、奈良・平安時代はF音で今のようになったのは江戸時代である事が分かった。とすれば昭和・平成の日本語の発音をこの時代の発音としてより正しく、より美しく歌い残しておきたいと思った。

昔、伊万里を訪れたとき自分の手でどれだけ土を練ったかが陶器の出来栄えにつながるという話を思い出した私はどんなやさしい歌でもくり返しくり返し歌い込んだ。

『この道』をくり返し歌っていたら第3節で”おかあさまと馬車で行ったよ”とここだけが過去形であることに気付いた、”おかあさま”という言葉”行ったよ”という過去形、これによって私たちは知らず知らずのうちにふと幼いころに戻されている、幼いころの安らぎにふれている、白秋のやさしさの表現と受けとめた。

『からたちの花』にも”みんなみんなやさしかったよ”と過去形があった。 ある宴席で耕筰は白秋に、僕は”からたち”に悲しい思い出があるといって話し始めた。

9歳のとき父親を亡くし、自栄館という印刷工場に働きに出かけた。貧しくて食べるものも無かった、1万坪ある敷地の垣根は”からたち”だったが秋になるとからたちの実を小さく刻み生野菜に混ぜて食べ飢えをしのいだ、工場で先輩の職工に乱暴されるとからたちの垣根まで逃げ出し人に見せたくない涙を流した、そのような時近くの畑で働いている小母さん達がやさしくしてくれた。

“からたちのそばで泣いたよ みんなみんなやさしかったよ”はこのことだったのだ。そして白秋も耕筰の9歳のときに戻って慰めてあげたいという気持ちが過去形となったと理解した。耕筰も『からたちの白い花、青い棘、そしてあのまろい金色の実、それは自栄館生活における私のノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって詩となりかの歌となったのだ。』と自叙伝に書いている。

やさしい言葉でありながら何か心惹かれる白秋の詩の魅力に触れた気がした、詩の背景にあるものを深く感じ取らなければと思った。

日本語は思いやりにあふれる言葉であることにも気付いてきた。二人称の表現も豊かである、また日常的にへりくだる形で受身形を使っている、とすれば自己主張をするような歌唱は日本語にはふさわしくない、日本の言葉の奥底には日本の民族が千年以上に亘って育てたやさしさと常に相手に対する思いやりがある、このことを心にとめて歌っていこう、・・・・

また、日本の童謡・唱歌・抒情歌にはなにか”もののあわれ”を感じさせるものがある、”もののあわれ”を感ずれば人に対し或いは自然に対しやさしくなるだろう、日本人の奥底にある祖先から受け継いだやさしさの感性を目覚めさせるものとして『日本の歌大好きな人の輪』を広げようという活動を始めた。

自己主張の強い歌唱ではなく、日本の風土に合った、日本の言葉にふさわしい歌唱で言葉の情感に思いを込めて歌っていきたいと願っている。

私の今日あるのは、両親を含めた多くのご先祖様から頂いた体と感性、江口保之先生との出会い、更に多くの方々との出会いとご支援によるもので感謝の念でいっぱいでありここ近年は「歌うは祈り」の心境となることがしばしばある。

 

平成13年8月20日 山本健二